デパウラの高きヒップが駆ける秋
秋の日を嚢中の錐(のうちゅうのきり)現れん
急ぐべき?落ち着くべきか?秋の朝
息を呑むテレビ観戦秋陽射
秋旻(しゅうびん)や上勝町と糸井さん
■草間彌生の名言
集積と稠密(ちゅうみつ)びっしりぎっしり20世紀芸術の一つの特徴
参照:https://soul-brighten.com/kusama-yayoi/ より
①
自分自身の信じるところを正直に生きればいい。
②
地球、月、太陽、そして人間も、全ては水玉で出来ているの。
③
いつの日も私はひたすら一生懸命新しい作品を作り続けているだけ。
④
子供の頃のみじめな思い、人生の苦しさ、足踏みをしていた時代を思うと、
私の芸術を評価し認めて下さることに感謝の気持ちでいっぱいです。
⑤
残された少ない時間の中から、ご飯を食べる時間も寝る時間も削って、
一生懸命絵を描き続けています。
⑥
求道の姿勢というのは多くの人の気持ちを動かすもの。
⑦
私は自己表現と自己消滅を求めることにエネルギーを注いできた。
⑧
餓えや犯罪が戦争につながるように、セックスの抑圧も
人間の本当の姿を押し曲げ、人間を戦争に駆り立てる遠因になっている。
⑨
一つのことを始めたら、生涯命がけでやらないと嘘だと思います。
⑩
自分の芸術の力を信じて何十年も闘ってきました。
⑪
手が先に動いていて、どういう風な絵をしようというようなことは一切考えず、
頭は後からついてくる感じです。
⑫
私の人生は芸術によって開かれました。私の芸術が評価され、
愛されることを願って、死にもの狂いで闘ってきました。
⑬
人生の闘いの中に芸術は存在してて、それを乗り越えてゆくことが、
人間としての存在感だと思ってる。
⑭
子供の頃から、自殺への憧れがすごくありました。家庭環境に悩んで、
幻聴や幻視にとらわれてものすごく恐ろしくて、毎日、自殺したいと
願うほど追いつめられて。自殺を思いとどまらせてくれたのは、
絵を描いたり、作品を創ったりすることだった。
⑮
私は、心に描いた社会のようなものを形成するために、
芸術を使って革命を始めたかったのです。
⑯
キャンバスと絵筆を前にして、私の手は考える前に動き始めます。
そして完成した作品を見て、その結果に驚かされる。——いつも。
⑰
作品を作るとき、特に水玉模様を強制的に持ってこようと
思っているわけではないのです。いつも自然に水玉模様ができるだけ。
⑱
最も激しい憎悪は、最高の美徳や最も危険な犬のように、この上もなく静かである。
⑲
日本は伝統の良さを失って、醜く近代化してしまった。
⑳
私は宇宙初の天才で星や太陽といつも一緒に住んでいます。
㉑
私は、より有名に、さらに有名になりたい。
■宇野千代の人生
尾崎士郎 1923年同棲 1926年結婚 1930年離婚
東郷青児 1929年同棲 1934年離別
北原武夫 1937年同棲 1939年結婚 1964年離婚
「スタイル」創刊号(1936年)
表紙絵:藤田嗣治 題字:東郷青児
さて、男と女との間の生活で、一人がもう別れたいと思っているのに、
もう一人は決して別れたくないと思っている。
そういうものだと思われているのが常であるが、果たしてそうであろうか。
私の考えはこの反対である。
一人が別れたいと思っている頃には、片っ方のもう一人も、
やっぱり同じように別れたいと思っている。
別れたいと思っているのであるが、それを先に口に出すのを控えている。
或いは、口に出す勇気がない。思っているのと口に出すのでは、
まったく別のことだからである。
「生き行くより私」より
燕楽軒(えんらくえん)千代のアルバイト先の一つ
滝田樗陰 芥川龍之介 今東光 久米正雄など文豪が集っていた
1923(大正12)年 26歳 尾崎士郎と同棲
その身態での引け目を、顔ででも償いたいつもりのお化粧が、
だいぶ薬が利きすぎて、濃い脂粉の牡丹の花の様な顔が、
首から上で戸惑っていた。
その上に一遍ぐしゃっと潰された気持は、
容易にほぐれて来そうにもなかった。
夕方、また速達で、予期していたが、
あまりにも早過ぎるフバーからの絶好状が来た。
「脂粉の顔」より
1922(大正11)年「墓を発く」「巷の雑音」を発表
尾崎士郎 萩原朔太郎 川端康成 宇野千代(馬込のモガ) サロン状態となる
二人の魅力が文士たちの虜に
東郷青児(心中未遂を起こしたばかりの人)と出会ったばかりの日に同棲
濃密な4年間 1930年発表「色ざんげ」
東郷青児から心中未遂事件の経緯を徹底的に聞き出した
自暴自棄というよりももう少し積極的な、或いは廃頽(たい)的な気持である。
とにかく僕は変わっていた。
法律とか道徳とか人の世の約束とかの 遠く届きそうもないこの世界で、
僕は何でも出来るような気がする。
僕は不安の中に喜悦を感じる。
この自由な世界でつゆ子は完全に僕のものであった。
「色ざんげ」より
聞書の手法は「人形師天狗屋久吉」や「日露の戦聞書」など
ノンフィクションに用いられた
千代は42歳で10歳年下の作家・北原武夫と結婚
経営に失敗して大きな借金を抱え倒産
1957(昭和32)年「おはん」刊行 野間文芸賞を受賞
1984年 映画化・舞台化される!10年の推敲を重ねた!
思えばこの私ほど、
仕合せのよいものはないやろうと思うてるのでございます。
あなたさまと一つ家の中に暮しはいたしませなんでも、
言うたら夫婦になって、あなたさまにいとしいと思われてたのやはいかと
思いましてなぁ。
「おはん」より
おはんを演じた吉永小百合女史は静かな微笑みを男への復讐として演じた
宇野千代自身は後に、「おはん」のモデルは私(千代)自身かもしれないと…。
尾形明子(文芸評論家)は語る
宇野千代はクールでハンサム!
尾崎士郎も東郷青児も北原武夫も育て上げた
生涯で13軒家を建てた
千代は生涯 子どもに恵まれることはなかった
読者への励ましや応援歌になった!
宇野千代「雨の音」北原武夫との日々を見つめた作品
寵(ちょう)子がこの世に生きていたのは、たった三時間であった。
私の眼に、とめどもなく涙が流れた。
私はいつだって仕合わせ
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