香り立つ色気むんむん湯帷子(ゆかたびら)
雲の峰石段そろり足かけて
明月院ブルーの夏の接待
夏山路深き緑を歩む女(ひと)
夏の雲三方山に囲まれて
■白洲正子が愛した日本人 西行と明恵(2007年)
車谷長吉 渡辺保 水原紫苑 渡邊あゆみ 青柳恵介
覚悟を持って生きている人に美を見いだした
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮れ 西行
年月をいかで我身におくりけん昨日の人も今日は亡き世に
さても西行発心のおこりを尋ねれば源は恋故とぞ承る
申すも恐ある上臈(ろう)女房を思懸け進らせたりけるを
あこぎの浦ぞと云ふ仰を蒙りて思ひ切り…無為の道にぞ入りにける
「源平盛衰記」より
伊勢の海あこぎが浦に引く網もたびかさなれば人もこそ知れ
面影の忘らるまじき別かな名残の人の月にとどめて
数ならぬ心の咎(とが)になし果てじ知らせてこそは身をも恨みめ
青葉さへ見れば心のとまるかな散りにし花の名残と思へば
ふりにけり君がみゆきの鈴の奏はいかなる世にも絶えず聞えて
奈良の僧、とがの事によりて、あまた陸奥国へつかはされたりしに、
中尊と申所にまかりあひて、都の物語すれば、涙流す、いとあはれなり
なみだをば衣河にぞながしけるふるき都をおもひいでつつ
とりわきて心も凍みて冴えぞ渡る衣河見に来たる今日しも
熊野へまゐりけるに八上の王子のはなおもしろかりければ社に書つけける
待ちきつる八上の桜さきにけり荒くおろすな三栖の山風
何事のおはしますをばかたじけなさの涙こぼるる
(西行の作かは疑わしい)
秘すれば花 世阿弥
57歳「明恵上人」執筆
76歳「西行」執筆
斑尾明恵上人遺訓
我は後世にたすからんと云う者あらず
ただ現世に先づあるべきやうにあらんと云う者なり
人は阿留辺幾夜宇和の七文字を持つべきなり
僧は僧のあるべきやう 俗は俗のあるべきやう
乃至帝王は帝王のあるべきやう…
此のあるべきやうを背く故に一切悪しきなり
凡そ仏堂修業には何の具足もいらぬなり
又独り場内床下に心を澄まさばいかなる友かいらん
たとへば猶(なお)その上は罪あるによりて地獄に堕ば…
本より地獄には諸の菩薩ありと云えば卑(おそろ)しからず
伝記
十三歳の時 心に思はく 今は早十三に成りぬ
既に年老ひたり死なんこそ近づきぬらん
悠々として過ぐべきに非ずと…
モロトモニ アハレヲボセ ミ仏ヨ キミヨリホカニ シル人モナシ
無耳法師之母御前也
その御長三尺許なり 光明赫奕(かくやく)たり やや久しくして失せぬ
行状記
更ニ此外ニ何聖教ヲカ求メム
明恵
遺跡を洗へる水も入海の石と思へばむつまじきまな
明恵上人却廃忘記
ワレハ天竺ナドニ生マシカバ何事モセザラマシ
只御遺跡巡礼シテ如来ヲミタテマツル心地シテ学問行モヨモセジトオボユ
原点回帰
是れ政道の為に難儀なる事に候はば 即時に愚僧が首をはねらるべし
伝記
此の歌即ち是れ 如来の真の形体なり
されば一首読み出でては 一体の仏像を造る思ひをなし
一句を思ひ続けては秘密の真言を唱るに同じ
我れ此の歌によりて法を得ることあり
しづかならんと思ける頃 花見に人々 まうできたりければ
花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 科(とが)には有(あり)ける
誰かまた花をたづねて吉野山 こけふみわくる岩つたふらん
空にいでて何処ともなく尋ねれば 雲とは花の見ゆるなりけり
あづまのかたへ あひしりたる人の もとへまかりけるに
さやの中山見しことの 昔に成たりける 思出られて
年たけて又越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山
西行69歳
風になびく富士の煙の空に消えて ゆくえも知らぬわが思ひかな
西行終焉の地 弘川寺 西行の墓
ねがはくば花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ
明恵(1173~1232)
行状記
我ガ死ナムズルコトハ今日ニ明日ヲツグニコトナラズ
風になびく富士の煙の空に消えてゆくえも知れぬわが思ひかな
吉野山梢の花を見し日より心は身にもそはずなりにき
無心になる事が生きていく上でどんなに大切なことか
■白洲正子 祈りの道をゆく(2011年)
八百万の神がすむ山河
岐阜 日吉神社 十一面観音座像
仏はつねに在(いま)せども うつつならぬぞ哀れなる
人の音せぬあかつきに ほのかに夢に見え給ふ
やがて信仰は広まり 十一面観音は
さまざまな姿をして 人々の前に現れた
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